海のアルカリ性を保つ, 腐敗した貝殻のしくみ
Alan Petrillo 著
2022年11月
生物と環境の境界線はどこにあるのでしょうか? この問いには, 通常, 私たちの目が答えてくれるようです. 私たちは, 木と土, 鳥と空, 貝と海を視覚的に区別することができますが, 外見に騙されることもあります. 生物と非生物の間にははっきりとした境界線が見えるかもしれませんが, もっと深く見てみてください. 一見, 固いように見える「生物」というものの境界は, 実は穴だらけの織物であり, タペストリのように美しく, 深いものなのです.
生物は環境と物質を交換することでその存在を確立し, その循環によって環境もまた変化していきます.私たちの目や頭では, 分子レベルで何が起こっているのかを理解することは難しいかもしれませんが, 生命と環境の相互作用が与える影響は, もしかしたら海そのものと同じくらい巨大かもしれません.
小さながら重要なカメガイ
例えば, カメガイを考えてみましょう. オランダのユトレヒト大学地球科学科の地球化学研究者 Olivier Sulpis 氏は, 「それは陸上で見られる小型のカタツムリようなもので, 水中を飛び回るための翼を持っています」と説明します. カメガイ (翼足類とも呼ばれる) は, 体長1cmにも満たない大きさで, 炭酸カルシウム (CaCO3) の一種であるアラゴナイトから薄い半透明の殻を作ります.
カメガイは, 海水に含まれるカルシウムや炭素などの物質からアラゴナイトを合成します. 翼足類が死ぬとき, アラゴナイトの殻が溶けることで, 海水中に浮遊する二酸化炭素 (酸) の一部が中和されます. このように, 世界の膨大な数のカメガイは, 海のアルカリ性を維持するのに役立っているのです. しかし, 海水中の二酸化炭素濃度の上昇により, カメガイが殻を作るための環境が崩れてしまう可能性があります. このようにしてアラゴナイトを生成する生物の数が減少することで, 酸性化が加速する悪循環に繋がってしまう恐れがあります.
「カメガイは非常に脆弱であるため, 海洋酸性化の「第一応答者」であると言われています」とSulpis氏は言います. しかし, 残念ながら, 人類は, これらの第一応答者が私たちに伝えていることを解釈するのに苦労しています. カメガイは数多く生息していますが, その生態の大部分は謎に包まれています. 特に, 死後に海の最深部に沈んだ後のことは, よく知られていません. アラゴナイトの殻を溶かすと, 海底堆積物に含まれるCaCO3) の別の形態である方解石と相互作用して二酸化炭素をトラップして中和するという説があります.
この深海での亜鉛メッキプロセスは, 生物が生きている間に起こる反応よりも, 海洋のアルカリ性を維持する上でさらに重要であるかもしれません. マイクロメートルスケールの化学プロセスは, 特に1km以上の水中で発生する場合は, 研究が非常に困難です. このとらえどころのない現象をよりよく理解するために, Sulpis 氏は, アラゴナイトが海底のカルサイトに富んだ堆積物とどのように相互作用するかについての新しい3Dモデル (2022年3月のNature Communications誌の論文で紹介) を開発しました. (参考文献1)
死してなお, 海の生命を支える CaCO3 生成者
カメガイは一見, 研究対象になりそうもないように思われるかもしれませんが, 彼らとその仲間の CaCO3 生成者は, 環境に非常に大きな影響を与えています. 翼足類は, 夜間は海面に向かって上昇し, 日中は下降するという垂直移動のサイクルで生活しています. そして, 微生物を食べ, 海からカルシウムと溶存炭素を取り込んで, 壊れやすいアラゴナイトの殻を作ります (図2参照).
「海水中には, カルシウムと溶存炭素がいたるところに存在しています」と Sulpis 氏は言います. 「このため, 生物にとって, 結晶構造を作るための理想的な材料となるのです.」 炭酸カルシウム化合物は, 多くの貝殻や, サンゴが形成する外骨格を構成しています.
世界のサンゴ礁は, 海の生物と無生物が織りなすタペストリの最もわかりやすい例です. 健康なサンゴ礁には, カルシウムと溶存炭素から結晶構造を活発的に合成する生きたサンゴが生息しています. また, 健康なサンゴ礁には死んだサンゴもあり, 腐敗しながらも周囲と相互作用し続けます. 分解されたサンゴは, 動植物の多様な生態系を維持するとともに, 海洋のアルカリ性を維持し, 海底を覆う炭酸塩を多く含む堆積物を増やすのに役立ちます. また, 死んだ翼足類の殻も海底の堆積物の一部を構成していますが, その役割には謎が多いようです.
消失したアラゴナイト
サンゴの多くは, 海中に存在する最も一般的なCaCO3 化合物であるカルサイトから骨格を生成します. 前述のように, カメガイの殻はアラゴナイトからできています.「アラゴナイトとカルサイトは同じ CaCO3 化合物ですが, 結晶構造が異なります. 同じレンガでできているのに, レンガの配置が違うようなものです」と Sulpis 氏は説明します. 彼の観点からすると, アラゴナイトは, 海洋の炭酸塩循環において重要な役割を担っているため, もっと考慮されるべきなのです.
「アラゴナイトについて多くのことは知られていませんが, カメガイが生息する浅瀬にどのように分布しているかは推定できます」と Sulpis 氏は言います. 「また, それらの殻が沈んで深海に到達していることも確認できます. 深海の堆積物からサンプルコアを回収すると, カルサイトはたくさん見つかるのですが, 期待されるアラゴナイトがないのです. では, それはどこに行ってしまうのでしょうか?」
アラゴナイトの「消失」の原因として, 深海環境では, 溶解したアラゴナイトがカルサイトと化学的に相互作用し, それによって後者が溶解しないように保護されているという説があります. しかし, この説は一見もっともらしいように見えますが, 海洋のアラゴナイトの循環を研究する上で, 証明するのは困難です.
アラゴナイト循環に関する「恥ずかしい 」知識の穴
Sulpis 氏は, 2022年3月の自身の研究についてのTwitter投稿 (参考文献2) で, 「外洋のアラゴナイトの循環についてほとんど知られていないのは恥ずかしいことだ 」と書いています. この発言について尋ねられると, 彼は笑って次のように説明します. 「発表された文献を見ると, アラゴナイトが海洋の炭酸カルシウム全体の10%を占めているという推定が見つかります. しかし, 炭酸カルシウムの90%を占めるとする研究もあります. それが専門家による最高の推定値の範囲だとしたら, かなり恥ずかしいことです!」
アラゴナイト循環に関する人類の知識は, 海洋深層部での研究の難しさに根ざしています. 海面から遠く離れた場所に高感度の計測器を設置するのは限界があります. Sulpis 氏は, 「この規模と深さでの海水中の反応は, 私たちが物理的に行けない環境で起こるため, 観察することはほぼ不可能です」と言います. 深海の堆積物から物理的に標本を取り出すことも, 特に研究対象となる物質が非常に壊れやすい場合には, 困難です. 「カメガイをセジメントトラップで回収するのは本当に大変です」と Sulpis 氏は言います. 「深海から引き上げる頃には, すでに溶けてしまっている可能性が高いです. そのため, 深海の圧力と温度における炭酸カルシウムの反応に関する良いデータが不足しているのです.」
海水中の炭酸カルシウムの挙動を数学的にモデル化する試みはこれまでにもありましたが, 既存のモデルは Sulpis 氏の研究にとってやや限定的な価値しかありません. 「ほとんどのモデルは, アラゴナイトの個別のモデルを作成するのではなく, すべての CaCO3 をカルサイトとして扱ってきました. また, 既存の続成作用的な「連続体」モデルは, 1つの粒や貝殻の1つの孔のスケールで起きていることを捉えていません」と彼は説明します.
また, 古いモデルでは, CaCO3 粒を滑らかで均一な物体として表現していましたが, これは正確ではありません. 「これらの粒が滑らかな立方体や球体ではないことは明らかです. それらには, 「内側」と「外側」があり, 複雑で不均質なマイクロメートルスケールの形状になっています.」 Sulpis 氏は, いくつかの単純化が必要であることを認めていますが, 「私たちは, 可能な限り最小のスケールで, 実際の形状をできるだけ忠実に再現したかったのです」と述べています. 「一部の構造を単純化する前に, 単純化しても結果が損なわれないことをシミュレーションで確認したかったのです.」
海洋と堆積物の境界領域へのシミュレーションによる深堀り
カルサイトとアラゴナイトが海底でどのように相互作用するかをより深く理解するために, Sulpis 氏は COMSOL Multiphysics® ソフトウェアを使って3Dモデルを開発しました. このモデルにより, 海洋生物とその環境の境界を仮想的に移動することが可能になりました. これにより, 研究者はアラゴナイトとカルサイトの粒とそれを取り囲む海水の溶解反応をシミュレーションすることができます. 水のアルカリ度, 密度, 化学組成は, 典型的な深海の条件に合うように設定されました. チームは, さまざまな固体をモデル化し, 海水や海底堆積物との相互作用をシミュレートしました. また, Sulpis 氏は, 実際の標本のスキャンに基づく貝殻のモデルを, 堆積物, 水のインターフェースに追加しました. 例えば, 下の図5で強調表示されている H. inflatus 翼足類の殻は, ベネズエラ沖のカリアコ盆地から採取された標本のCTスキャンに基づいています. このような3D画像により, 殻の不規則な形状がその溶解にどのような影響を与えるかをシミュレーションで捉えることができました.
このシミュレーションは, 貝殻の内側の形状が, 海水との反応に大きな影響を及ぼさない可能性を示しています. 「上段を見ると, 貝殻の内部では, 閉じ込められた水が CaCO3. で完全に飽和状態になることがわかります. このため, 複雑な内面に沿ってそれ以上溶解することができず, 貝殻は外側から内側に向かって溶解していきます」とSulpis 氏は説明します. これらの結果は, 少なくとも貝殻が完全に海水に包まれている場合は, 貝殻のモデル形状をある程度単純化しても, シミュレーション結果に必ずしも影響を与えないことを示唆しています.
さて, 貝殻と海水が混ざったものを, カルサイトが豊富な堆積物に加えるとどうなるのでしょうか. 図6は, この相互作用の効果をシミュレートしたものです. 画像(b)では, 溶けたカメガイの貝殻が, 堆積物に混じったカルサイトの粒に亜鉛めっき作用を与えている様子が示されています. この粒は球体としてレンダリングされています. これは, 図5のようなシミュレーション結果に基づいて Sulpis 氏が単純化したものです.
このプロセスでは, 堆積物, 水インターフェース付近で固体と混ざり合う海水が重要な役割を果たします. 「既存の1Dモデルは, 海底と水の境界を完全な実線のように見せています」と彼は言います. 実際には, 境界線はさまざまであり, 見かけの分離線より下でも, 海水は固体の周りを循環しています. 海水と堆積物の境界をグラデーションで捉えることが, Sulpis 氏の3Dモデルの利点の一つです. 翼足類の殻が溶けると, 周囲の海水はアラゴナイトで飽和状態になります. この飽和海水と堆積物が混在するズーンは, 図6(b)で赤く塗りつぶされています. このアラゴナイト飽和海水が, 他の生物が残したカルサイトと化学的に相互作用し, 保護するのです.
図6の画像(a) はカルサイトに対する海水の飽和状態 (海底と堆積物の間の移行領域で溶解する力) を示しています. 海底から1.5mmの高さでは, 海水は飽和しておらず, カルサイトの粒は容易に溶解するはずです. 黒線は, アラゴナイト源が存在しない場合, カルサイトが堆積物, 水インターフェースで溶解し続けることを示しています. 赤線は, 翼足類の殻の溶解が過飽和を引き起こすため, 浮遊するカルサイト粒の溶解を止めるはずの領域を示しています.
図7. 海底堆積物中の翼足類の存在が, 周囲のカルサイト粒の溶解速度にどのように影響するかを示すシミュレーション結果. 色の薄い部分は, 溶解がより急速に起こっている場所を示しています. 白線は, カルサイトが溶解副生成物と平衡状態にある (つまり総溶解や総沈殿が存在しない) 飽話線 (等高線) を示しています.
人間同士助け合いながら海を修復する
水中のマイクロメートルスケールの生化学的プロセスを解析する新しい方法を開発した Sulpis 氏は, 現在, 自分の研究がさらなる研究にどのように役立つかを模索しています. 「次のステップは, カルサイトと翼足類の殻をビーカーに入れて, これらのプロセスを実験室で再現してみることでした. 今のところ, 実験結果はシミュレーションで示されたものと似ています」と彼は言います. 「今の目標は, この情報を使って, その場で観察することをよりよく解釈することです.」 この目的に向けて, Sulpis 氏たちはオランダ研究評議会 (NWO) から助成金を得て, アラゴナイト生成者がどのように環境を形成するかを直接研究しています.
もちろん, その活動が環境に最も大きな影響を与える生物は人間です. 人為的な酸性化は, 海洋生物が地球上で織り成す生命維持のためのタペストリを脅かしています. このことを考えると, 炭酸塩循環を理解するという広範なプロジェクトは, より緊急性を帯びてきます. 「私たちが海に追加している二酸化炭素の量に比べ, 中和されている量はごくわずかです」と Sulpis 氏は言います. 「炭酸塩循環プロセスがその仕事を担ってくれる可能性はありますが, それまでには数千年かかるかもしれません!」
もっと身近な視点から, Sulpis 氏は, 他の人間が彼の研究や解析をカメガイの世界, そして私たちの世界を守るために使って欲しいと熱望しています. 「私たちのモデルは, すべてオープンアクセスです」と彼は言います. 「私たちが作ったものを, 他の人たちが役立ててくれることを願っています.」
Olivier Sulpis 氏の炭酸カルシウム貝殻溶解のシミュレーションは, 以下からダウンロードしていただけます: https://zenodo.org/record/5741613.
参考文献
- O. Sulpis et al., “Aragonite Dissolution Protects Calcite at the Seafloor”, Nature Communications, vol. 13, no. 1104, 2022; https://doi.org/10.1038/s41467-022-28711-z
- O. Sulpis, [@OliverSulpis], (2022, Mar. 7), It is embarrassing how little is known about open-ocean aragonite cycling. Published estimates of the fraction of aragonite in [Tweet], Twitter; https://twitter.com/OlivierSulpis/status/1500867151816704001